【Part2】「自分らしさ」を超えて | 十牛図が教えてくれた自然体への道
「自分らしさ」その先にあるもの
みなさんこんにちは!
禅の教えから「本来の自己」を探す旅を描いた、十牛図。
今回は2ヶ月ぶり、第二弾です。
前回の記事を書いてから、探究を続け、2ヶ月前よりも理解が深まった気がしたので、
改めて今の視点でまとめてみます。
十牛図に描かれている「牛」は、現代では「本来の自己」と解釈されることが多いです。
私自身は「本来の自己」は、「本当の自分」、つまり「自分らしさ」だと体感から解釈しました。
そしてこれまでは「自分らしさ」を見つけて、
その自分で生きることこそが自分のゴールだと思っていました。
でも、「自分らしさ」すら手放したその先に続く「本来の自己」があることを、
最近の十牛図の探究で理解しました。
十牛図を深く読み直して見えてきた、
「本来の自己」とは。
「自然体」とは。
そして、「自分らしく生きること」と「自然体で生きること」は何が違うのか。
今日はそんな視点でまとめてみます。
※この記事は、「【Part1】十牛図って何?」の続編です。
Part1では、わたしが十牛図に出会った当初の気づきや、自分の経験と重ねたその当時の直感的な理解をまとめています。
より感覚的な入口として、あわせて読んでいただけたら嬉しいです。
【Part1】十牛図って何?|「自分を見つける旅」禅のガイドマップとの出会い
禅の教え「十牛図」は、最近は俳優の松重豊さんも著書を出し、じわじわと注目され始めています。十牛図は、「本当の自分」と出会い、自然体で生きていく10枚の心の旅。ちょっと解釈が難しいこの図を、現代の内観の視点から、わかりやすく読み解いてみました。
十牛図の各ステップを、わかりやすく読み解く
それでは、まず各ステップごとに読み解いていきましょう。
私自身の現代的な解釈も添えています。
ちなみに今回は、それぞれの図のイラストをAIで生成してみました🐃
1|尋牛:「本当の自分ってなんだろう?」という問いが生まれる
この段階では、
「本当の自分」「本当の自己」「自分らしさ」
というものがぼんやりとしていて、まだ掴めていない。
「本当の私ってなんだろう?」
「人生の意味ってなんだろう?」
「やりたいことってなんだろう?」
「このままでいいのかな?」
そんな疑問が湧いてきたタイミング。
現代社会で生きる多くの人は、「自分らしさ」を探しているのではないでしょうか?
なので、「牛」=「自分らしさ」という解釈をベースにしていきます。
2〜3|見跡・見牛:「自分らしさ」のヒントや片鱗が見えはじめる
自分探しの旅を始めて、
「自分らしさ」はまだ掴めていないけれども、
それにつながるヒントを掴んでいくフェーズ。
私はこのフェーズは、自己対話・内観・内省の視点から、
違和感、モヤモヤ、怒り、悲しみ、劣等感、心地よさ、ワクワク…
自分の感情がヒントになると思っています。
感情の奥の「本音」を探ることが、「牛」本体を掴む鍵になります。
4〜6|得牛・牧牛・騎牛帰家:「自分らしさ」を見つけ、育て、共に生きる
試行錯誤、自己対話を経て、ついに純粋な「自分らしさ」を見つけて捕まえる。
これは、社会的価値観などにとらわれない「自分らしさ」を指します。
「自分という存在」が強く意識され、アイデンティティの土台になる。
そして、時には揺れながらも、「自分らしさ」を定着させて、
「自分らしく」「自分軸で」生きていくことを実践するフェーズです。
自己受容が始まり、深まる時期もこのあたりです。
自分らしく生きられたら、
ここで、もう「人生まっとうしました🙌」と言っても良い気がします。
7|忘牛存人:「自分らしくあろうとする意識」を手放す
「自分らしい生き方」が自然で、
その「自分らしくあろう」と意識すらしなくなるフェーズ。
つまり、「自分らしさ」で生きることが体に馴染んで、
あれだけ求めて探していた「自分らしさ」すら、もはや意識することがなくなる。
図の中でも、牛さんがいなくなっていますが、まったく気にしていない様子🏠
自分らしさをもう意識しないけど、自分らしい「自分という存在」が、ただ在るだけ。
すでに仙人レベル⛰️
8|人牛倶忘:「自分」さえも手放し、ただ“在る”という境地に至る(悟り)
そして、自分らしさを意識ししなくても自分らしさがある「ただの自分」すらも、
すっかり馴染んで意識しなくなる時、
その境目に、現れるのが「空(無)」という感覚。
「自我(自分らしさ)」も「自分の存在」も意識しなくなるフェーズ。
「自我」も「自分の存在」も、他者がいて初めて認識できるものですよね。
その「認識や区別」なくなると、「ただ在る」という感覚になっていきます。
ここがいわゆる、「空」「悟りの境地」と言われるフェーズ。
「空」というと「虚しそう」というイメージがあるかもしれませんが、
実はとても穏やかで爽やか。
9|返本還源:何者でもない、ただ“自然の一部”としての自分に還る
ここで気づくのは、
自分が、自分を取り巻く「自然」そして「いのち全体」の一部で在るということ。
つまり、この大きな命の循環の中での純粋な「いのち」としての自分に、
頭ではなく体感する。
そこにはもはや、他者との比較・区別によって認識する自分ではない。
この9枚目には、牛も人もなく、自然の絵しか描かれていないんですよね。
それは、この自然に溶け込む一部になっているから。
その純粋な「いのち」としてあることが、
本当の意味での「自然体」ではないでしょうか。
どうでしょう、「見つける」というよりは、
ここまでくると自然に「還る」という表現の方がしっくりきませんか?
私たちが生まれたときは、ただの「いのち」でしたから。
「自然体」とは、それを思い出すことなのではないかと思います。
自然の一部としての自分が自然体。
それが一番純粋な自分、つまり本来の自己かもしれません。
だから、力みが抜けて、信頼してすべて自然に身を任せられるのです。
10|入鄽垂手:その自然体の自分で、社会の中を生きていく
そんな「自然体の自分」で、社会の中を生きていくこと。
それが、十牛図の最後の絵に描かれています。
ちなみに、この状態になったら「聖人」というわけではなく、
相変わらず人間としての、喜びや不安や怒りや悲しみなどの感情は湧いてくるようです。
それも自然なことだから。
ただ、それらの感情すら、ただ「そうである」とやさしく気づきながら、
自然体で社会の中を生きていくこと。
それが、十牛図に描かれている最後の境地であり、人生は続いていきます。
スライド一覧👇
「本来の自己」とは
この流れで、私が考える「本来の自己」は、
「自分らしさ」でもあり、「自然体の自分」でもあります。
深度の違いです。
本来の自己 = 自分らしさ(牛)
↓
空(無)
↓
本来の自己 = 自然体の自分
牛に象徴される探し求める「自分らしさ」
その牛すら消えた先にある「自然体の自分」
どちらも「本来の自己」であり、
「自然体の自分」になるためには、
「自分らしさ」を見つけて生きることが、前段階として必ず必要なんじゃないかと考えます。
そしてもしかすると、「本来の自己」は、
もっと大きくて、深くて、
まだ私が想像できない可能性を持っているのかもしれません。
自然体とは「自分らしさ」さえも超えたところにあった
十牛図を深く読んでみると、
本当の意味での「自然体」は、
「自分らしさ」や「自分という存在」すら消え去った後の状態のことでした。
目から鱗がポロッと落ちてきたので、
今回はただそれを共有したかっただけでした🐟
最近は「自分らしく生きたい」と考える人も多くなってきましたよね🌱
自然な時代の流れでもあるかもしれません。
それは私にとってもすごく大事なことです。
いや、でも、ほんとは別に「自分らしく」生きなくても、それもいいんです。
それぞれの人生に、それぞれテーマがあるのだから。
つまりは、十牛図のように「自分らしさ」の先に行ってもいいし、行かなくてもどっちでもいい。
生き方は自由なんですから。
あなたの牛は、今どこで何をしていますか?
正直「牛」が”本当は何を指しているか”、私にもわかりません🐃
色々探究しているうちに「自分らしさ」という表現が現代的にしっくりきたので、
今はそう解釈しています。
明日には変わっているかも…なレベルです笑
人によって「牛」はまったく違うものかもしれない。
そこが十牛図の自由で奥深くて、面白いところです。
あなたは今「牛」を育てている途中かもしれないし、
今見つけたところかもしれない。
これから探すタイミングかも。
あるいは、手放す準備ができているのかもしれない。
どの段階にいても、それはすべて「自然の流れ」。
絶対的な正解なんてありません。
あなたのタイミングで、あなたのペースで。
探求も探究もどっちも楽しいですね🐃
今回もお付き合いいただきありがとうございました。
それでは、また次回お会いしましょう😊
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自己対話のツールとして出会ったタロット。試行錯誤を経て、セッションという形に育っていきました。大切にしている想いや、どんな方に届けたいかを、丁寧に綴っています。